令和6年10月23日(水)岐阜市鏡岩の岐阜県慰霊塔前において、岐阜県戦没者追悼式が厳かに挙行されました。今年度は、5年ぶりにコロナ禍以前の規模での開催となり、約500名のご遺族が参列され、盛大に執り行われました。
副知事の式辞、来賓および岐阜県遺族会武山茂活会長の追悼の辞に引き続き、遺族代表として多治見市遺族会の度会伸也会長から追悼の辞が述べられた後、岐阜県遺族会顧問であります渡辺猛之参議院議員および各郡市の会長ほか、ご来賓の皆様が献花し、戦没者のご冥福をお祈りして厳粛のうちに無事終了しました。
遺族代表の追悼の辞
本日ここに、岐阜県知事、ご来賓の方々の御参列を仰ぎ、県内各地からはご遺族が集い、 岐阜県戦没者追悼式が厳粛に執り行われるにあたり、戦没者遺族を代表して謹んで追悼のことばを申し上げます。
苛烈を極めた先の大戦が終結し、平和が蘇って79年目を迎えました。今や、戦後に生まれた世代が9割を超え、幾多の悲しみをもたらしたあの忌まわしい戦争を知らない国民が大半となりました。それだけに私たちは この平和の尊さ、有難さや戦没された皆様方への哀悼の思いを新たにいたすものであります。
私の父は、昭和18年2月に軍医として中国に出征いたしました。母に「心配するな。子供たちを頼む。」と言って出征したそうです。昭和20年2月に負傷して、一旦帰国しましたが、その後、広島陸軍病院にて診察中の8月6日、原爆に遭い跡形もなく戦死いたしました。
顧みますと、私たち戦没者家族の生活は 一家の柱を失い、厳しく苦難に満ちた長い歳月でありました。戦後はみんな貧しかった中で歯を食いしばり励まし合いながら一日一日を生きてまいりました。物心両面に係る苦境は言語を絶するものでありました。この間、母は働き通して。49歳で父のもとへ旅立って行きました。
すでに戦没者の父母の方、妻の方の多くがご英霊のもとへ旅立っておられます。痛ましい犠牲の上に得られた平和と豊かさを当たり前と思わず、辛く悲惨な記憶と体験を風化させることなく、後世へと語り伝えていくことは、残された私たち遺族の責務であります。
戦争は実に悲惨で残酷なものであります。私たちが身をもって体験した悲しみや苦しみをもう誰にも味わわせたくはありません。悲惨な戦争の教訓をしっかりと心に刻み、すべての人々が平和で心豊かな世界となりますよう、たゆまぬ努力をいたしますことをお誓い申し上げます。
本日は、ご来賓多数のご参列を仰ぎ、かくも厳かに戦没者追悼式を執り行っていただき、御霊たちは申すに及ばず、私たち遺族にとりましても誠に意義深く感謝の極みでございます。古田知事はじめ、関係各位の皆様に衷心より厚く御礼申し上げます。
ここに、御霊たちのご冥福と、ご参列皆様のご多幸とご健勝を心からお祈り申し上げ、 追悼のことばといたします。
令和6年10月23日
遺族代表 度会 伸也



